薩摩に下野した時、西郷隆盛はまだ陸軍大将のままでした。
実際の戦闘の指揮は、桐野利秋に任せていて、唯一指揮をとるのは延岡市北川村熊田での戦い。軍服を焼き、それまで連れてきていた犬を放ち、圧倒的な政府軍を前に敗北と死を覚悟したのでしょう。
可愛岳に登り、山岳地帯を突破して城山の洞窟に籠ったのが、明治10年9月1日。
21日、河野主一郎が山野田一輔を伴い、政府軍の司令川村純義に会いに行く。助命を嘆願するつもりだったが、河野は決起した理由を述べるにとどまった。
22日西郷は各隊長を集めて、手書きの檄文を示した。これが西郷の絶筆となる。
24日午前4時、ついに政府軍の総攻撃が始まる。洞窟を出て岩崎谷へ向かう途中、西郷は銃弾を受け動けなくなり、別府晋介の介錯により自刃を遂げる。
西南戦争は政府による西郷隆盛暗殺計画の是非を談判するための行動ともいわれます。一貫して西郷は天皇に対して敵対することを避けようとしていました。けれど三万を越す兵力となった薩摩軍は、政府側からすれば恐ろしい賊軍でしかなかったのでしょう。しかもそのリーダーは明治維新の英雄であり、陸軍大将だったのですから。